久しぶりに羽織ったコートのポケットの中に、500円玉が入っていた。
おおっ、やったっ、ラッキー。
臨時収入だぜ。へへへ。と喜んでいたのだが、冷静に考えて見ると、その500円玉は誰かからもらったわけでも、神様が恵んでくれたものでもない。元々自分のものだ。自分の財産総額には一切の影響はなく、ラッキーなどとと言って喜ぶべきものではないのだ。
とは言っても、やっぱりうれしい。
うふっ。
突然ちょっとしたお小遣いをもらった気分なんだけど、これって、すごくねぇ?一切のお金のやり取りをしていないのに、まるで収入があったかのような気分にさせてくれるのだ。
日常の中で幸せを感じるときがある。道端に咲いている小さな花を見つけた時にポワンとしたり、友人から心温まる言葉をかけてもらってウルッとくるような、日常のワンシーン。そんな時に、しみじみと幸せをかみ締めながらよく思うのが、「人生、金じゃないな」と言うことだ。
これは言葉を返せば、「人生、やっぱり金」という価値観の中で生きていることに他ならない。多くの幸福は金額的価値が付けられ、それを得るためには見合った金額の支払いが必要となる。それ故に、お金が入ったときと言うのは、無条件で幸福感を感じるのである。
そして、この無条件の幸福感、お金の幸福感を、一切の代償行為なしに感じることが出来るのだから、これはイイっ。
せっかくだから、もう一回味わいたい。
オレは、そのコートのポケット中に、今度は一万円札を忍ばせた。
ぬふふ。これで今度はもっと喜ぶことができるはずだ。500円ですら、あれだけうれしかったのだ。一万円なら、躍り上がって喜べるに違いない。ぬふふ。未来の自分へのささやかなプレゼントだ。喜んでね、未来のオレ。
しかし、この喜びを感じるためには、コートのポケットの中に一万円が忍ばせてあることを完全に忘れなければならない。あるべきところに、あるべきものがあるのでは、何の喜びにもならない。思わぬところに一万円というシチュエーションでなければならないのだ。しかし、これがなかなか忘れることが出来ない。クローゼットを開けるたびに、かかっているコートが目に入り、ポケットの中の一万円を意識してしまう。
だめだ。忘れられねぇ。
あーん、もうっ。
ギ、ギブ。
一週間ほどで、オレはギブアップした。コートの中の一万円札が気になって気になって、忘れるどころではない。無理だ。こういうのは、無意識にやった中で起こらないとダメなんだ。ヤラセではダメなんだね。すっかり完敗です。ふぅ。
オレはコートのポケットの中から一万円札を取り出して財布に入れた。
そして、オレは、そのことを忘れた。
それからしばらくしてから、再びそのコートを着ることになった。
おっ、そう言えば、このコートには一万円札を隠したんじゃなかったっけか。えへへ、ラッキー。一万円の臨時収入だ。えへへ。ありがとう過去のオレとか言いながら、ポケットをゴソゴソ。
あ、あれっ?ない?
はっ、そうか、あの時オレは、我慢できずに使ってしまったんだった。エーン。
あると思ったものが、あるべきところにない。
お金が、ない。
なんか、すごく損をした気分。
無条件に幸福感をもたらすのがお金。それがないと言うことは、無条件に虚しさと言うか、寂しさと言うか、物悲しさを感じる。なんだか疲れたね、パトラッシュ。
いや、分かってるんですよ、全然損なんてしていないって。でも、なんか悔しいっ。
エーン。
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