自転車。
2003/09/25

 
 大学の時、ロウと呼ばれている先輩がいた。
 蝋燭のロウなのか、Lowのロウなのか、あだ名の由来は定かではなかったが、ロウという呼び名がよく似合った。

 清潔感のあるこざっぱりした服装をまとい、髪の毛はサラサラのストレート。とても物静かで、喋る時には、少し頭を左に傾ける癖があった。週に一回か二回ぐらい、障害者の施設でボランティアをしていたと思う。
 そして、優れたベースのプレイヤーだった。

 ロウさんが卒業する時、僕は一台の自転車を譲り受けた。
 タイヤサイズが小さく、普通の自転車の何倍もこがないといけなかった。何年も海底に沈んでいたかのように、ボロボロに錆びていて、こぐたびにキコキコと軋んだ。そして、チェーンがどこかに当たっているのだろう、何回かこぐごとに規則的にバッチャという音をたてた。
 駅の自転車置き場に鍵をかけないで置いておいても誰も盗まない。このボロボロの自転車がまだ動くとは、誰も思わなかったのだろう。

 キコキコ、バッチャ。キコキコ、バッチャ。

 それでも、僕の行動範囲は、この自転車のおかげでぐんと広がった。
 文庫本ばかりを置いていて、およそ商売になっていないような古本屋や、自分の趣味で楽器を集め、売る気のまったく無い楽器屋。中国人の店主がいつも咳をしている中華料理屋。ソープランドのお姉さんがいつも食事をしている路地裏のオンボロなカツ丼屋。
 コスモスが咲き誇っている川原の土手を二人乗りで走ったこともある。
 キコキコ、バッチャと何処にでも走っていった。

 ロウさんの自転車を随分乗り回したが、やがて僕はこの自転車と同じぐらいボロボロの軽自動車を手に入れ、自転車に乗る事は無くなった。

 その自転車は、その後・・・。
 その後、どうしたんだっけ。

 ロウさんの自転車に関する記憶は、そこでプッツリ切れてしまっていて、どうなったのかまったく思い出せない。後輩に譲ったのか、大学の駐輪場に置き去りにしてしまったか。
 キコキコ、バッチャという音だけを僕の記憶に刻み、僕の前から消えてしまった。

 数年前まで、時々、ロウさんがベースを弾いている姿をテレビで見かけた。
 そのたびに、キコキコ、バッチャと鳴く自転車を想った。

 テレビを見なくなって、僕の前からロウさんの姿も消えた。

 キコキコ、バッチャ。音だけが耳に残っている。
 

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