童話。
子供を対象にした物語である。
子供を対象にしたものであるから、ほのぼのしていると思ったら大間違いである。実はかなり残酷な話が多く、グロな世界がそこに広がっている。
花咲か爺さん。
冒頭の場面で、犬が殺される。最後は性悪ジジイが切り殺される。
舌切り雀。
いきなり冒頭で動物虐待が行われる。そして最後は、性悪ババアはつづらの中から出てきた、蛇やらムカデやら牛の糞やら馬の糞やら化物に殺されてしまう。
赤ずきんちゃん。
狼にバアさんが食べられるが、狼の腹を切り裂いて、バアさんを助け出す。替わりに狼の腹に石をつめ、縫合した後に井戸に突き落とす。
三匹のヤギのがらがらどん。
何もしていない間抜けなトロルが、大きなヤギにズタズタの八つ裂きにされてしまう。
さるかに合戦。
カニはサルに殺され、サルは集団暴行の末、石臼でつぶされて圧死する。
かちかち山。
お茶目ないたずら好きの狸は、背中に火を点けられたり、やけどにからしを塗られたり、さんざん虐待された後、溺死させられる。
挙げだしたらキリがない。
どれもこれも、冷静に考えたらかなり気持ち悪い話だ。悪者は大抵死ぬ、と言うか殺される。さほど悪くなくても殺される。ホントにそこまでやるかと思う。もう、何が正義なんだか。
つーか、実写で撮ったら、18禁でしょ。
赤ずきんちゃんなんて、ホラー映画です。
ちびくろサンボを発禁にしている場合ではないです。
ま、同じようなことを考える大人はオレ以外にもいるようで、物語の結末が本来のものから、マイルドな内容に変更されている場合も多いようである。
物語の結末で、悪者が死ぬと言う場面は、牢屋に入れられたり、落ちぶれたりする程度になっていたり。死刑から無期懲役に減刑されている訳だ。
ひどいものになると、結末そのものを摩り替えてしまったり。
アリとキリギリス。
怠け者のキリギリスは、助けを求めたアリに冷たくあしらわれ、雪の中で飢えと寒さのために死亡する、と言うのが本来の物語である。
ところが、アリはキリギリスをかいがいしく助け、みんな仲良く越冬する、と言う物語に変更されてしまっている。
「キリギリスさんは、夏の間楽しい音楽で私たちを楽しませてくれた。今度は私たちがキリギリスさんを助ける番です。」などと、アリが言うのだ。
違うでしょ、それは。
はっきり言って、マズイです。
これが正しい教育だと思って、この物語を書き換えたヤツ、かなり重罪ですよ。
「アリが助けてくれるなら、キリギリスでいいじゃん。」
まともなヤツならこう思うって、絶対。
日本経済がここまで低迷しているのも、最近の大人が色気を出して、童話に手を加えてマイルドな結末にしてしまった結果かもしれない。
人類の歴史の中で、長い間、子供に語られていた童話は、やはり歪曲させずストレートに子供に語るべきなのである。
残酷でも、グロでも、物語が矛盾だらけで何が正義か分からなくても、本来の童話を正しく子供に語る。それが大人の義務だ。
やがて待っている社会と言うものは、矛盾に満ち、冷たく残酷な側面と、幸福や感動が満ち溢れている側面と、様々なものが混在している。実に混沌としたものだ。
童話はその縮図であり大人はそれを子供に伝える義務がある。現代人の感覚で都合よく書き換えてよいものではないのだ。
ふぅ、熱く語ってしまったな。
それにしても日本の昔話は、何故、ジジイとババアが主人公の話が多いのだろう。良いことをするのも、悪いことをするのもジジイとババアだ。ここに日本人の潜在的な精神世界があるのかも知れないなぁ。
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